(「ループ」だっけ?)
三貴子に当てはめれば、客観はEQUAL「ツクヨミ」になるのかもしれない。
(個人的勝手な解釈)
でも実はこの客観という、そこはかとない「上から目線」は厄介な代物で、
冷静沈着な「客観」視線ではマヌケで哀れに思える主観を突き詰めた先に
象徴的意味での「高天原」が広がってるのかも知れない。
そこに顕現する意外な、まさかの等式が
「アマテラス=スサノオ」
なのかも?
王仁三郎は「時節」という言葉を使っていた。
ツクヨミは暦を連想させる。実際「時」を司るカミなのかも知れない。
実はこれらの「時節」「ツクヨミ」って悲しき存在なのかも知れない。