「ククノチ神界へ突入するため」らしいですが、
日月神示的(数字的)に「読んで」みたらなんだか面白い妄想が?
ククモは「九九百」
ククノチは「九九ノ千」に変換しても良いはずです。
これを日月神示と絡めてみると、
ヒ フ ミ ヨ イ ム ナ ヤ コ ト モ チ ロ ラ ネ
「一二三四五六七八」の次に現れてくるらしい「九十の世」に関係してる
ように見えてきます。
「九九」が共通してますが、これを「次元」と考えることは出来ないのか?
たとえば一二三四五六七八を一本のライン上の1次元にあると考えて
南龍の九九は同じくライン上の1次元 ククノチの九九は平方の2次元
そう仮定してみれば、九九に続くのは「モ(百)」と「チ(千)」ですから
「モ」=「百」で=100=10✕10(10の平方)
「チ」=「千」で=1000=10✕10✕10(10の立方)
一二三四五六七八 九 十という展開で
1次元から2次元へ上がるのが金井バージョン?
1次元から2次元、さらに3次元へと上がるのがククノチ?
ふたつの名前はそれを暗示してるのでは?という妄想が今回の記事でした。
(毎度毎度わけわからん話でスイマセン)
久蜘蛛の方の「九九」は1次元・2次元、どっちつかずの1.5次元的な
立ち位置にも思えます。だとしても次の「十」になった時、ひとつ次元が
上がってるような土台(舞台)となるための「九」なのでしょう。
日月神示では「平面の世を立体に」と書いてあったので、僕の仮説とは
次元がひとつズレてることになりますが、これを無理くりに繋げてみると
一二三四五六七八が一本のライン上にある「1次元」と認識してる
客観視できてる時点で、その視線はすでに「2次元」に位置してるのでは?
つまり「10✕10」の縦横平面を認識してるなら、その視線は3次元にあると
「つごーよく(笑)」考えれば、日月の神さまが伝えてる神示との
「せーごーせー」は取れてるのかもしれません、でございます。
金井南龍は便宜的に「人間を3次元・眷属を4次元・神を5次元」と
表現していて、そうなるとまたまた次元がズレてしまいますが、
しかしこれをあくまでわかりやすい「例え」と見なせば、
人間の世界と次元がひとつ上の眷属の世界を繋げようとしたのが南龍
(車小房おばあちゃんの由来記について眷属云々と発言してたのは
そういう理由だったのかな)
つまり日月神示の立体の世とは人間が神の眷属になるってことかいな!?
そんな新たな妄想も浮かんできました。ハトやキツネも眷属でしょうが
天使も眷属の一種と考えれば、シュタイナー的な世界観とも重なってくる?
人間の世界と結ばれた眷属の世界を、さらに神の世界と結んでくれるのが
「ククノチ」という神さまという解釈もできるのかもしれません。
2008年の記事ですが、ここで最初の「+」と「✕」のとりかえっこを
しています。今回の記事も「9+9」と見なすか「9✕9」と見なすか、
16年前と同じようなことをしてるわけです。全く進歩してない自分で
情けなくなります(笑)
「十」をEQUAL「神」と見なすこともできるようですが、今回僕が
気になったのが「九」の変幻自在さです。今回の記事でも上記のリンクでも
プラスの世界・カケルの世界に柔軟に対応してるのは「九」です。
確か日月神示的には「九」に相当する宗教は大本だったと思いますが、
この変幻自在さって「ちょびっと王仁三郎のキャラクターを連想させる?」
なんて思ったりしました。完成形である「十」よりも「あそび」がある状態
色々カラフルな可能性・自由さを秘めてるのがひとつ手前の「九」の世界
なのかもしれませんね。