2021/01/30

わたしの思う、天津神と国津神(的な視線)

ザックリ分けると、日本の神さまには「天津神」と「国津神」
ふたつの種類があると思ってます。

天上から、宇宙から、あるいはどこかから?
日本の国土以外のどこかから「降臨なさった神さま」
それにたいして、もともと「日本にいらした神さま」
そんな風にふたつを解釈してますが大きくは間違ってないですよね?

二種類の神さまの“特徴”、さらにはそのお気持ちは理解できなくても、
その“視線”みたいなものは僕でも接近・接触できないものか?と
考えるうちに「彼らを利用しよう」という、個人的勝手な結論に
行き着きました。

彼らとは「作家さま」です。
読書家でもないので、漱石も鴎外も谷崎も大江もハルキも
一冊も読んだことが無いですが、そんな極めて狭い視野で、
重箱のSmith的な目線で、ふたりチョイスしました。
天津神が以前ここでも取り上げた「ミシマ」
国津神が作家にしてはマスコミ露出が多めの
「ムラカミ・まんまる・龍ちゃん」です。

例えば亡くなって半世紀くらい経ってるミシマの予見性みたいな話は
聞きます。(その本を読むほどアグレッシブではありませんが、笑)
対する、まんまる龍ちゃんですが、だいぶ前に立ち読みしてた描写が
「なんだか現実になってるみたい・・・」と思うことがあるのに、
「箝口令でも引かれてんの?なんでみんな騒がないんだろう」と
不思議な気分になります。例えば「ここで地震が起きる」って
感じじゃないですが、予言的な小説が多いなあ、と。
(このブログで発表してる「自分が生み出した」と思ってる妄想も
「まんまる龍ちゃんに引きづられてるだけかもなあ・・・」と
思うこともあります。正直な話)
もっとも「予言」は小説家だけじゃなくて、映画作家・アニメ作家etc、
様々な表現者がしてるので、
「予言してないクリエイターを探すほうが少ないよ」が事実なのかも?

予言以外にも、対象への興味の持ち方なども特徴的だと思います。
正確な記述は忘れましたが
「冬になっても咲いたまま枯れてる薔薇」
「籠から出したら飛べるようになったニワトリ」
なんだかふたつの神々の視線って感じがしました。

「こんなに純粋に、こんなに濃厚に」
「天津神」と「国津神」ふたつのタイプの神さま(的な視線)が
感じられるのは「このふたりじゃないか?」という妄想をしました
ってお話でございます。
僕は不可思議な存在が好きですが、その点では天津神の不可思議さは
圧倒していて、「何がなんだかわからん」とクラクラします。
だからこそ「何を考えてるのか知りたい」と強く感じたりします。

こんな戯言を書けるのもインターネットがあるおかげですね。
ありがたいこっちゃです。
最初に書いたように読書家ではありません。
特に純小説は「読みたくない」という拒絶感の方が強いです。
理由はすぐ洗脳されちゃうからです(笑)
無意識のうちにまるで自分発信のように、小説の“受け売り”を
始めちゃう自分に気づいて、なんだか「みっともない、なさけない」と
後悔したので、できれば読みたくないです。
ふとした気の緩みで、なんだか油断してたら「読んじゃった」ことが
多いですが、その結果、得ることもたくさんある充実した読後感。
そしてまた、受け売りを始める懲りないワタクシ(笑)