南朝の後醍醐もイチオウ「てんのー」がついてますよね。
あの方の周りに集まった「悪党」って存在が、
それまでの音楽業界をひっくり返すことになった、たとえば
はっぴーえんどなんかの人脈に相当するんじゃないのかな?
なんてことを考えていました。
「売れなければ意味が無い」という世俗に君臨しつつ
ある種の聖性を保持していたからこその悪党たちの「馳せ参じ」に
見えたりするので、そっち方面での南北朝を「統一した京平てんのー」
ってちょっと大げさでしょうか(笑)
そんな大先生も昭和から平成に切り替わる頃から、
まるでそれに合わせるように光り輝く御代が陰っていった
わけですけど、それほど音楽に詳しくない僕から見てると
その勢いを最も大きく削いだ元凶は「KARAOKE」だった?
大衆が「聴く」に特化していた筒美メロディは結構難解で
今思うと音痴なアイドルが歌うには「大変だったろうなあ」って印象
大衆が「歌う」に対応しきれなかったことが大きな原因だったのでは。
もうひとり黒澤てんのーって方もいます。
七人の侍は名作らしいですが観たことありません。ただラストシーンの
セリフだけは知ってます。それがさっきの「聴く」から「歌う」への変化に
スライドできないかな?と思いました。
「隠し砦の三悪人」のラストシーンも、それまでの「血湧き肉躍る」が
一瞬にしてクールダウンして氷結したように僕には見えました。
フリーズして固まった仏像というか神像のような三人と、なんだか楽しげな
庶民の鏡みたいな二人 それを隔てる城門はアリ一匹も入り込めないように
「完全シャットダウンなんだろうなあ」って感じで建っています。
そんな断絶を気に留めることもなく、中途半端な上手さで自らが
「歌う」ことであの映画は終わったんでしょう。
ここで唐突に芸能からまつりごとに話を移します。
三英傑にとって「てんのー」をどうするかはとても難しいクイズショウ
だったはずですが、その一環として(移り気で当てにならない)「大衆」
ってものを人間扱いして「数」にすることで多数派工作を行った?
「多数決」EQUAL民主主義じゃないらしいですが、そういうニュアンスの
政策をとることで、天からの視線で人間を見下ろすことを許された絶対存在
「てんのー」ってものを凌駕しようとしたのでは?
辻褄の合ってない謎の思考回路でそんなことを思いつきました。
ついでに上記のふたりのてんのーはそこからうまれる「悲哀」を
「表現(体現)してたんじゃないのかな?」なんてこともついでに。
幕府が関所などを作って各地を分離政策をしたのは、
その結果うまれる「江戸」という多数決を成り立たせるためだった?
「明治新政府には徳川の幕臣も少なくない(むしろ多い!)」
とかなんとか、関係者でも無い人が怒ってましたが、結局移り気で
あてにならない「大衆頼り」を選んだんだから、関所から開放された
多数決がそっぽ向いたらそれで「ジ・エンド」
「グチグチうるせえよ」ってことになるのかもしれません。
多数決では勝てない武士階級すら見下ろすこともできてるわけですから、
自己否定で天下統一した武家の幕府ってことになりますね。
武士に対する「建前と本音」を上手に活用した250年だったんでしょう。
三英傑と「天下餅」の面白い歌がありますが、僕がそれをアレンジすれば
こんな感じになるのかいな?
「織田がつき」
「羽柴がこねし」
てんかもち
「徳川将軍、お皿に乗っけて」
「日本国民みんなで食べよう」(^_^)
こんな替え歌をかなり昔から?平成の頃から心のなかで歌っていました。
この歌にふたりのてんのーをプラスしたのが今回の記事になります。
モチじゃなくて将軍そのものを「ムシャムシャ」に見えてきて
なかなか悪趣味ですが(笑)
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BRICsの破壊工作を目論むアメリカの工作員(笑)は、
こんな回りくどいことをしてひとり面白がっています、
結局彼らにはキリスト教的 上から目線のG7を「凌駕できたw」と
勘違いすることは出来ても、その後に来るNEOG7の上から目線を
持つことは不可能なのでは
PS:替え歌に出てくるのはもちろん「日本国民@天皇を頂く」です。
いただくとか書くと、以下同文